ロシア語学科で教鞭をとられた名誉教授・外川継男先生は2025年1月3日に逝去されましたが、その外川先生を偲ぶ会が6月14日(土)明治大学で行われました。偲ぶ会に出席されたロシア語学科の湯浅剛教授が外川先生への追悼文を寄せてくださいましたので、ここに掲載いたします。
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学生と向き合い、学者としての範を示してくれた外川先生
湯浅 剛
6月14日、年初に逝去された外川継男先生(1934年生まれ、2025年没)を偲ぶ会が明治大学で開かれた。明大の豊川浩一先生や、上智での一番弟子を自任する青木恭子さん(ロシア語学科31期卒、現・富山大学)などが呼びかけ人となり、故人を偲び、しばらく語り合う機会となった。僕も元学生として参加し、ようやく先生をお見送りさせていただいた心持ちでいます。
会ではゲルツェン研究などで多くの接点があった長縄光男先生や、外川先生より4歳下と同世代の和田春樹先生が故人の業績や人となりを俯瞰的に紹介され、他の参加者からも洒脱な人柄を思い起こさせる様々なエピソードが紹介された。
偲ぶ会で皆さんが披露するエピソードから、改めて思い至ったことがある。それは、先生が北海道大学から上智へ移られた1987年以降、ロシア語学科では従来の語学教育に加えて、政治・外交・歴史など地域研究を志す学生たちを指導するための本格的な陣容や制度がいよいよ整えられていったのだ、ということ。外川先生と並び、宇多文雄先生も演習科目に相当する授業を設けられ(宇多先生はゼミならぬ「セミ」と言っていたっけ)、少人数で討議し、自分の研究を仕上げていくという、いまの演習科目の原点はこの時代にあった。外川先生が「学科に学問研究の雰囲気を導入した」との指摘も『ロシア語学科50周年記念誌』(2007年刊、96頁)にある。
2年生を対象とする「ソ連地域研究方法論」では、ロシア語学科が大学図書館と一緒になって編纂した冊子『ロシア語学科学生ハンドブック』(1989年刊)を使って、図書館での本の調べ方から研究方法を手取り足取り教えてくださった。この冊子は翌年『地域研究のすすめ』として改められ、その後も版を重ねた。また、他の外国語学部の学科も同種の手引き書を刊行するようになった。3年生以降、僕自身は、演習科目を含めて当時のカリキュラムでの国際関係論副専攻の授業を重点的に受講するようになったので、ロシア語学科では外川ゼミではなく宇多ゼミを受けた。しかし、学部生にしてはそこそこ長い原稿用紙30枚(1万2千字)の論文を最初に書いたのは、外川先生の授業だったことを覚えている。先行研究を2~3読んでまとめた程度の文章だったが、自力で適切な資料に行き当たったことを先生には褒めてもらい、論文を書き上げたときには一つの山を登り切ったような達成感があった。受講した他の仲間の論文構想を聞くのも面白かった。みな、ペレストロイカでソ連が激変していく現地の様子を見守りながら勉強していた時代であり、外川ゼミ、宇多ゼミ共に盛況だった。
当時は、大学の付置機関であった国際関係研究所(IIR)やアジア文化研究所なども巻き込んで「地域研究とは何か」という問題に取り組んでいた時期でもあった。そんな大学全体の流れの中で、ロシア語学科では外川、宇多、そしてより年長の内藤操(内村剛介)の各先生が地域研究の礎を築いてくれたのだと思う。外川先生は語学授業も担当され、僕が受けた2年生対象の講読授業では、帝政期までのロシア史概説やキュスチーヌの旅行記のロシア語訳を読んだと記憶している。
学生だった僕は、そんな先生方の苦労も知らず、上智での学びの環境を水か空気のように当然のものと思って呑気に過ごしていた。愚かであった、と教員となった今は反省している。大学の授業やさまざまな業務をこなしながら、学問で学生を導いていくというのは並大抵のことではないからだ。外川先生は、森嶋通夫の自伝を引きながら、大学教員を研究一辺倒の「聖者」と事務や学会の雑用をやる「俗人」に分け、「「管理職という俗業」に専念するのを名誉と思うのは大きな間違い」という森嶋の指摘に同感しつつも(「スラ研の思い出(第7回)」『スラブ研究センターニュース』第81号、2000年5月刊)、先生ご自身は「俗人」たることも引き受けられた。先生は、北海道大学スラブ研究施設長、そして同施設が昇格し「スラブ研究センター」となった初代のセンター長という行政職を計8年務められた。このことを上智大学での最終講義(2004年1月9日)では「研究の方はずいぶん阻害されました。しかし、(中略)わりきっていたので、不満はありませんでした」とあっさりと述べている(『サビタの花』成文社、2007年刊、25頁)。しかし、前述の連載エッセイ「スラ研の思い出」では、文部省との折衝、学内のさまざまな調整ごと、とりわけ人事をめぐって教員間で激しいやり取りがあったことなど、生々しい記述が随所にある。僕は、管理職を担っていた間には学者として内心さまざまな葛藤があったのではないか、後に時間をかけてご自身の経験を反芻し、最終講義での発言のような心境にいたったのでは、と推察する。他のことにつけても、ご自身の努力や苦労というものをあまり表に出さない方だった。
激務のなか、通史『ロシアとソ連邦』(講談社、1978年刊)を40歳代前半でまとめられた、というのは驚異的である。同書は僕たちが学部生の頃に、増補のうえ文庫化されロングセラーとなった。つまり、ロシア語学科は「俗人」としてのノウハウを身に着け組織改革に挑みながらも、当代一流の歴史家であった先生を北大から迎えたのであり、僕たち学生は日常的に先生の薫陶を受けるという幸運に恵まれていたのである。偲ぶ会では「外川さんがいなかったらスラ研はなかったかも」とどなたか呟いていたが、上智も外川先生が来ていなければ、ロシア語学科や学科生たちは今とは異なる道をたどっていたかもしれない。着任3年目と早々に外川先生はロシア語学科長となり(ここだけは僕と同じ)、同時期に学部長となった宇多先生ともども組織運営を担った。先生の影響を受け、学究の道を選んだ学科卒業生は多い。既に名前を挙げた方、また、現在の学科専任教員のほかにも、僕の前後に在籍していた学科卒業生で思いつくだけでも、佐藤千登勢(法政大学)、伊賀上菜穂(中央大学)、岡田美保(防衛大学校)、浜由樹子(東京都立大学)などの各氏が歴史研究で活躍している。
僕の手元にある先生の著作・翻訳の一部
先生の研究スタイルとして、イデオロギーにとらわれず、異なる考え方に耳を傾けていた、ということもよく指摘されるところである。前出の最終講義を読み返すと、先生の同世代の日本人がそうであったように、敗戦で価値観がガラッと変わり、目の間の権威が崩れていく体験が、そのバランス感覚の原点にあったのではないか、と思わせる箇所がある。外川少年は小学6年で敗戦を迎え、教師の変わり身の早さを目の当たりし、また、その後も中学・高校で先生に対する猜疑心を持つようになっていた(『サビタの花』13頁)。無論、歴史家としてのバランス感覚は、米仏への留学経験をはじめ、ご自身の研鑽によって培われたものであることは言うまでもない。偲ぶ会では、先生のロシア研究にはロシアの匂いがしない、というコメントをされた方もいた。良くも悪くも党派性に陥りがちな冷戦期の日本のソ連/ロシア研究を軽やかに飛び越えて、自由な雰囲気を醸し出していた、ということであろう。このような先生の研究スタイルも上智大学や上智の学生にとっては幸運だったと思う。スラ研時代に江口朴郎、猪木正道という左右の両巨人が何はともあれ共に仕事をしていた、というのは、先生の講義でも鉄板のネタの一つだった。先生ならではの視点で、学者群像を面白く伝えてくれて、僕は職業としての学問のイメージを沸かせたものである。授業で選んだテキストも、前述のキュスチーヌのように、さまざまな見方を紹介するバランスの取れたものが多かったと思う。
付言すれば、当時、上智じたいにも他大学に比べリベラルな雰囲気があり、外川先生もすんなりそこに馴染んでいらしたのではないか、と思う。江口・猪木のエピソードは、僕の学生時代の緒方貞子、鶴見和子、武者小路公秀、蝋山道雄などIIRの先生方の関係性を彷彿とさせる。IIRの教員は組織編成上、外国語学部に属していたから、外川先生も教授会などで接点があったはずだ。ロシア語学科やIIRのおおらかで自由な雰囲気の中で、のびのびと大学生活を送ることができたことは、僕にとってかけがえのない経験であった。
学生の描いた先生の似顔絵(御着任後の数年間、新入生オリエンテーション資料に掲載。作者不明)
かくも恵まれた環境に居ながら、受け取った薫陶の多くを僕は失ってしまったのではないか。学部・大学院を終えてからの僕は、自分の不勉強を棚に上げ「学問と政策の架け橋」などと嘯いて日々を送っていた(実際そう銘打つ所に職を得たからなのだが)。そんな生活に嫌気がさしてアカデミアに戻ってきたのが40歳代半ば。大した仕事もしていないなかで、外川先生にお会いすることも少し気後れするようになっていた。不義理を重ね、上智に異動したことをしっかり先生に報告しないまま、先生は逝かれてしまった。
落語や競馬など多彩な趣味を持ち、お酒が入り興に乗ればアカペラでシャンソンからさいたまんぞう「なぜか埼玉」まで次から次へと歌い続けた先生。そんな先生との雑談や交流を楽しく思い出す卒業生は多いだろう。僕は先生ほど多芸多才ではないが、せめて先生のように粋でありたいと思う。教えていただいたことが多少なりとも僕の血肉となっていることを信じつつ、もうしばらく大学という学問の場で頑張ってみたい。対立や分断の風潮目立つ昨今、先達の作ってきた自由闊達な議論の場を維持する――それが「聖者」になりきれない凡庸なる「俗人」のせめてもの守備範囲であると心得ている。
【付記】本文で触れたものを含め先生の著作一覧などが、下記の北海道大学スラブ・ユーラシア研究センターのウェブサイトに設けられた外川先生の追悼ページにまとめられています。参照してください。
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/center/essay/2025042300_j.html