あなたの思う、「コミュ力」とは何ですか?
私は2025年9月から、上智大学の交換留学制度を利用してルクセンブルク大学に滞在している。ルクセンブルクはフランス、ドイツ、そしてベルギーに隣接しており、国民の半分以上が外国人という国だ。公用語には、ドイツ語やフランス語、英語からの借用語が多いルクセンブルク語に加えフランス語とドイツ語も指定されている。また、リンガ・フランカとしての英語や、移民が多いことが由来してポルトガル語も幅広く使われている。そんな国際色豊かな国で、コミュニケーション能力とは何なのかについて私は考えるようになった。
日常会話で頻繁に聞く「コミュニケーション能力」という言葉。もちろん言葉は生き物であり柔軟なので、人によって定義はそれぞれだろう。しかし大抵の場合は、初対面でも円滑に楽しくお喋りできることや、場を盛り上げるのが上手であることを評価する表現として使われることが多い。
私はしかし、3言語以上話せることが当たり前のルクセンブルクでの生活を通して、コミュニケーション能力とは、相手の仕草や雰囲気から使いたい言語を読み取ったり、場合によっては相手が自分に合わせてくれることに対して敬意を持つことも含むのではないか、と考えるようになった。
大学では、ルクセンブルク語・フランス語・ドイツ語・英語で授業が開講されている。私は英語とフランス語で開講される授業を選んだ。フランス語で開講されている授業であっても、時々イタリア語を話す先生や、ドイツ語を取り入れる混ぜて先生がいるので、沢山の言語に触れることができる。フランス語・ドイツ語・英語の3言語で宇宙について議論する授業もあり、面白そうだと思い受けてみたかったが、それぞれ語学レベルがA2以上なければならなかったので私は断念。しかしもしドイツ語も使えるなら是非受けてみたいものだ。
授業をする建物、”Maison du Savoir” (知の建物)(知の館)
こう考えるようになったきっかけは冬学期にとっていた言語学の授業だ。初回の授業で学んだ「相手が話せる言語=相手が話したい言語、とは限らない」という考えに衝撃を受けた。英語、フランス語、ドイツ語を話せるが英語よりもフランス語を話したい人だっているし、ルクセンブルク国籍であるからこそルクセンブルク語を話したい人だっているはずだ。私は「話せる言語」と「話したい言語」を切り離して考えたことが無かったので、そんな自分の視野の狭さに驚き、また英語やフランス語を何も気にせずに、むしろ堂々と使っていた自分を恥ずかしく思った。
日常生活においては、フランス語 (圧倒的) に次いで英語、ドイツ語、ルクセンブルク語の順で使われることが多いと感じている。しかし、一度スーパーで買い物をしていて、レジの店員が客に “bonjour” (こんにちは) とフランス語で挨拶したときに、客がフランス語ではなくルクセンブルク語で “moien” (こんにちは) と返す場面を目撃して少し驚いた。考えすぎかもしれないが、客側にはルクセンブルクに居るのだからルクセンブルク語を使うべきだ、という強い意思があったのかもしれない。
また、ルクセンブルク国籍を持つ私の友人はルクセンブルク語、フランス語、ドイツ語、英語、ポルトガル語を話せるが、彼女が英語学科に所属しているからか私と話すときは英語を使いたがる。一方、私は、話すならできるだけフランス語を使いたい、と思っている。私も話せる言語と話したい言語を区別していたのだ。
このように、「話せる言語」と「話したい言語」は異なる場合があるからこそ、相手が私のわずかに話せる言語に合わせて会話をしてくれるときには敬意を持ちたいし、私としても相手が使いたいと望む言語を仕草や話し方から察知してできる範囲で合わせたい、と思う。実際、フランス語で最初は話していたけれど、相手が日本語学習者で話す練習をしたいように見えたら易しい日本語でゆっくり喋るようにしたり、フランス語話者でもフランス語が好きじゃないと言っていたら英語に変えてみたりして、できるだけ話し相手が一番心地よいと感じられるコミュニケーションにしようと心がけている。
ルクセンブルク語で書かれた標識
ドイツ語で書かれた横断歩道用のタッチ式スイッチ
言語はアイデンティティを形成するものでもある。私自身、英語とフランス語に加えて、ルクセンブルクに来てからドイツ語とイタリア語を少しずつではあるが勉強し始めた。もちろんそれぞれの言語に特異性があり良さがある。例えば英語には世界の共通語になったのも頷ける程文法や語がシンプルであり、フランス語は語と語の繋がりがなめらかに発音されるので耳に心地よい。ドイツ語は動詞活用の種類が凄まじく多く、発音も真面目で堅い響きがして、イタリア語はどこか陽気に聞こえるアクセントで、話していると楽しい。そして、外国語を学ぶことによってかえって日本語の特殊性と美しさに気付くようになった。マイナー言語である日本語を母語として喋る私にとって、日本語で簡単な挨拶をしてくれる人や日本語を勉強している人に会うと本当に嬉しい。それはきっと私のアイデンティティでもある日本語への敬意を感じるからだと思う。私もできる限り、誰かのアイデンティティであるそれぞれの言語に敬意を示したい。言語を話せなくても挨拶をその言語でしてみるだけでコミュニケーションをより温かく、心地よいものにできるのではないだろうか。
ルクセンブルクにはマルチリンガルな人々が多いけれど、それでも彼らの第2言語、第3言語は完璧でないことがほとんどだ。例えば、イタリア出身の先生がフランス語で開講している授業を私は取っているのだが、先生は、学生にフランス語の語彙や表現が正しいかどうかを確認することが多々ある。先生が素直に学生に対して聞けるということは素晴らしいし、学生もそれを馬鹿にせず、間違いがあれば丁寧に指摘する。言語学習者に寛容で風通しの良いこの環境は極めて尊い、と私は感じる。
私の住むまちはルクセンブルク語で”Déifferdang“、フランス語ではDifferdange。
残りあと4か月程、様々な言語が飛び交う豊かなこの言語環境のなかで、自らの「コミュ力」をより養っていきたい。
遠藤心結